天皇退位と新天皇即位!令和元年日本はどう変わる?

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2019年5月1日新天皇即位「令和元年」の幕開け

30年続いた「平成」は2019年4月30日をもって幕を閉じることになりました。

それと同時に同年5月1日新元号「令和」が幕を開けました。

その日が近付くにつれ、世間では新元号「令和」への期待と緊張感が高まっているような気がします。

いざ令和が幕を開けると、やはり元旦や2000年のプレミアムとは違い、新しい時代が始まるという重みがとても感じられます。

日本の歴史の大きな節目を目の当たりにできるも、日本に天皇や元号という文化があるからこそ。

国外からも多くの反応が寄せられています。

私たち日本人が「時代の呼び方がかわった」としか言えないととても恥ずかしいですね。

なのでこの機会に少しでも今回の改元について理解しておきましょう。^^

天皇制と元号、天皇陛下退位と新天皇即位との関係とは

 天皇制と元号との関係

昭和や平成を振り返ってみても、天皇が変わると元号も併せて変わるのが通例であるように思われていますが、

実は、在位天皇一代に元号を一つとすることは、明治時代に入ってからの様です。

この天皇一代に対して元号を一つにする制度のことを

「一世一元の制」と言います。

その一世一元の制度に則り、今回の改元も天皇陛下退位と新天皇即位をもって、新元号「令和」の始まりとなるわけです。

明治時代以前は一人の天皇在位時に幾度か元号を変えることもあったようです。

約13世紀も続いているこの天皇制の歴史の中では、一世一元は意外にも新しい制度なんですね~^^

 在位中での改元、平成天皇陛下の真意とは

今回の改元では大きな変化が見られました。

それは、天皇陛下が存命中に退位し、皇太子が天皇へ即位したことです。

明治以降一世一元の制が始まって以降、元号が変わることは即ち天皇陛下がお亡くなりになり、皇太子殿下が即位されることを意味してきました。

今回は平成天皇である明仁様が

恙なく皇位継承ができるようにとの思いで、存命中に退位を決意され、

新天皇の即位へと至っています。

権威闘争が主だった日本の歴史に踏まえ、自分主義の考えが世界的に増える傾向にある中で、

存命中に国の未来を次世代に託す姿は国内のみならず、海外の人々からも大きなの反響が寄せられています。

新元号の「令和」からも読み取れるように、この改元は未来へ希望を託すという意味が強く込められているようです。

令和元年日本はどう変わる?

元号が変わるということは日本にとって西暦が変わることよりも、非常に重要で意義深いことです。

まさに「新しい年」ではなく、歴史的時代の幕開けです。

このようなまさに歴史的な節目ですので、私たちの身近でも様々な変化が予想されます。

では、今後私たちの日々の生活の中で何が変わるのでしょうか。

実際に影響のあることを挙げてみました。

まず、国民の生活の中で直接感じられる変化は祝日と通貨の変更による影響だと思います。

 祝日はどうなる?天皇誕生日

今回の改元で平成天皇である明仁様が2019年4月30日を以って退位して上皇となり、皇太子様が5月1日即位し令和天皇となった為、

これまで明仁(あきひと)様の誕生日であった12月23日は平日になるようです。

それと同時に令和では徳仁(なる人)様の誕生日(2月27日)が天皇誕生日となり、

祝日となる。

新紙幣の人物は誰?

4月9日の麻生財務省相の発表によると

2024年度上半期より、日本円の紙幣千円札・五千円札・一万円札が刷新されるとのことです。

菅官房長官によれば、

これには、元号が新しく「令和」へ制定されたのを受け、

新しい時代を盛り上げる狙いがあると言います。

またこれまでの紙幣刷新同様、偽造防止の目的もあるとのことです。

新千円札

1000円札の肖像画には、「近代日本医学の父」と言われる北里柴三郎が採用されています。

近代日本医学の父
と言われる北里柴三郎

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
1853年1月29日(嘉永5年12月20日) – 1931年(昭和6年)6月13日

熊本県阿蘇に生まれ、18歳で熊本医学校に在籍後上京し、
東京大学医学部に入学。卒業後内務省衛生局に奉職していましたが、1886年ドイツベルリンの大学へ留学。

そして、1889年に世界で初めてとなる破傷風菌の純粋培養に成功し、翌1890年には破傷風菌の毒素を中和する抗体を発見。

その後北里氏は数々の伝染病に対する有効且つ画期的な世界初の療法を開発。

その功績が広まり、感染症医学の国際的な研究者としてその名が知られるようになりました。

 新五千円札

5000円札の肖像画には津田塾大(東京)の創設者である津田梅子が採用されています。

津田塾大(東京)の創設者である 津田梅子

津田梅子(つだうめこ)

1864年12月31日(元治1年12月3日) - 1929年8月16日(昭和4年)

女子英学塾(津田塾大学)創立者。

幕末の農学者津田仙,初子夫妻の次女。東京出身。明治4(1871)年日本最初の女子留学生として岩倉遣外使節団と同じ船で渡米。

帰国後、華族女学校・女子高等師範学校教授。明治33年(1900)女子英学塾(のちの津田塾大学)を創設し、当時まだ女性が社会で活躍することが極めて稀だった時代
女子高等教育に尽力を尽くしました。

新一万円札

 新10000円札の肖像画には「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が採用されています。

「日本資本主義の父」と呼ばれる 渋沢栄一

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)

1840年3月16日(天保11年2月13日) – 1931年11月11(日昭和6年)

現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれ育ちました。

しかし農家と言っても、藍玉の製造販売、養蚕、米、麦、野菜の生産など大規模で、幼少時代にすでに幅広い経営感覚を培ったと言われています。

若くして「尊王攘夷」の影響を大きく受けた渋沢氏は、高崎城を乗っ取り幕府を倒す計画をたてましたが中止になった後、交流のあった将軍徳川慶喜に仕えることになりました。

慶喜が将軍になると、パリの万国博覧会へ将軍の名代として出席、ヨーロッパ各国を視察し、各地で近代産業・軍備を見聞、帰国後はフランスで学んだ「商法会所」を静岡に設立。その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として尽力します。

 大蔵省を辞した後は「第一国立銀行」の総監役・頭取に就任。
また第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、生涯に約500もの企業の運営に携わったとされています。
また、教育者としても知られ、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力したとされています。

「令和」アルファベットだと書き方はどうなる?

意外と間違える人や疑問に思おう人が多いのが、アルファベットでの書き方。

結論から言うと

「令和」のアルファベットは「REIWA」となります。

間違って「Leiwa」と書く人も意外に多いみたいですね ><

たったそれだけのことですが、間違うと恥ずかしい思いをするだけでなく、

領収書など重要な書類の中で書き方を間違ってしまうと、相手に誤解を与え、あなたや会社の損失に繋がるかもしれません。

因みに、令和のアルファベット頭文字は「R」です。
令和元年なら「R1」となります。

令和元年、色んな場面で時代の変化が分かりますね。^^

 

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